郷研ボードⅠ

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「枯野」船が「カヌー」の語源?  投稿者:かれちち 投稿日:2003/10/13(Mon) 22:10 No.26
私はまったくの素人ですが・・・。インターネット調べによると・・・。
712年に書かれた古事記に「枯野(からの)」また「加良怒(カラヌ)」
720年に書かれた日本書紀には、
伊豆国に命じて長さ10丈(約30メートル)の大船を建造させたところ、
軽く浮かんで凄い速力があった。日本書紀の編纂者は軽くて速い船を
「枯野(からの)」と名付けるのは道理に反する。「軽野(かるの)と
いったのを後の人が訛ったのではないか。」と注を付しています。
また713年に書かれた常陸国風土記に大船(45メートル)が流れ着き
軽野の郷の記事があるとか。

カヌーの語源のポリネシアン・トライアングルの中のアラワク語は、上記の
「からの」「かるの」からきているのではないか。
他にもインダス文化を興したペリシテ族のカヌル族が狩野の語源ではないか
とか、いろいろありました。

平成4年10月19日天城湯ヶ島町松ヶ瀬の軽野神社で古代和船「枯野(か
らぬ)」が復元完成(縮尺?)奉納式が行なわれた。
現在はどこにあるのでしょう?

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  かれちち - 2003/10/14(Tue) 10:16 No.27
「角川日本地名大辞典」昭和57年発行によりますと、

「日本書紀」応神天皇5年の伝えるところによれば「冬十月、伊豆国に
ふれおおせて船を造らしむ。長さ10丈。船既に成り、試に海に浮かぶ。
すなわち軽くうきて、疾く行くこと馳するが如し。故れ其の船を名づけて
枯野(からぬ)とのたまふ」と見えている。
さらに同31年秋8月の条に、伊豆国から貢納した枯野が朽ちて役に
立たなくなったが、久しく官用として働いてくれたのだから、その功績を
忘れてはいけない。そこで枯野を薪にして塩を焼いたところ500籠の
塩がとれたのでそれを諸国に賜ったら、500艘の船が貢納されたことが
見える。伊豆国から貢納したという枯野船の船材は狩野山から切り出して
おり、それが現在の軽野神社の辺りだとされている。天城山は古く狩野山
と呼んでいた。
「万葉集」巻20に「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ
」という歌があり、「万葉集」編纂の時点で、伊豆製あるいは伊豆型の船と
いうものがしられていた。

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  堀江 - 2003/10/14(Tue) 17:48 No.29  HOME
 かれちちさん、古代船の情報ありがとうがざいます。
 「枯野」が「カヌー」に変化した説には、大変ロマンがあり、そうだと大変良いことです。
 しかし、これには賛否竜論があるようで、一つは中南米スペイン語で「丸木船」という意味をさす場合。
 もうひとつは、太平洋の各民族で「カヌー」という言葉が使われていない以上、単なる偶然とする説。
 「カヌー」の語源は日本の「カノー」それが「枯野」であり「狩野」であるよう名強い説があれば、な
んとか採用していただいて、「カヌー」発祥の地になれば、それも伊豆市の目玉になります。
 ですから、諸説を整理して、新たに書き込みます。

 ☆  ☆  ☆

 古代船「枯野」復元ですが、1992年10月、中伊豆青年会議所創立10周年を記念して復元されました。
 復元製作は焼津市の近藤和船製作所に依頼したと言う事です。
 造船の文献は少なく、船の大きさや材質などについては、はっきりした資料がないまま、いろいろな説を参
考に製作されました。
 出来上がった和船は、実物の5分の1に相当し、長さ3m、幅42cm、深さ30cmの縮尺模型で、
材質は船底部にクスノキを貼り、上部に杉を接合して作られた「準構造船」です。
 釘は一切使わず、板の継ぎ目を水で浸したマキの皮をあて革のツルを使って板を張り合わせています。
 現物は昭和の森会館に展示してあります。
 なお、枯野船に馴染みの「枯野公園」が西伊豆町の沢田漁協西側の高山にあるそうです。現在遊歩道コースと
なっていますが、後日紹介します。

 ☆  ☆  ☆

 日本書紀によれば、「枯野は狩野川を通って海路武庫の港にはこばれた」とあります。そして、官船として、
朝夕淡路島より、天皇の使う清水を汲みに通う役についたわけです。
 記事27の書き込みの「官用」とは、このようなことっだたようです。
 なお、書き込み中、「伊豆国から貢納した枯野が朽ちて役に立たなくなったが、久しく官用として働いて
くれたのだから、その功績を忘れてはいけない。そこで枯野を薪にして塩を焼いた」とありますが、その際
どうしても燃えない部分があったようです。

 以下は、町発行の「天城の史話と伝説」によりますが、そのことを、天皇に申し上げたところ、天皇はその
燃え残りの船財をもって、琴を作らしめた、とあります。
 そして、その琴を弾かせたところ、妙音実にさわやかで、遠くまで聞こえたということです。
 天皇歌って曰く、「枯野を塩に焼きしが余り、琴を作り掻きひくや、由良之門の門中の海岩に、触れ立つ浸
漬の木の亮亮」とあります。

 ☆  ☆  ☆

 ついでに、当町の書籍の紹介もしてしまいましたが、随時新しい情報を入れますので、またよろしくお願いいたします。

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  やまもと(古代ファン) - 2003/10/15(Wed) 15:25 No.32  HOME
かれちちさん、はじめまして。
軽野神社について、調べてくれたのですね (^^)/
堀江さんも色々ありがとうございます。

昔からの癖で、つい本に頼ったまま、インターネットで調べるのを忘れていましたが、
これだけ軽野神社について調べられるとは、正直びっくりしました~

>カヌーの語源のポリネシアン・トライアングルの中のアラワク語は、上記の
>「からの」「かるの」からきているのではないか。

この、カヌーの語源の説を紹介していただいて、ありがとうございます。
堀江さんも調べてくれたのでしょうか。
   中南米スペイン語で「丸木船」という意味
   太平洋の各民族で「カヌー」という言葉が使われていない
どうもミビイキだったようで、知りませんでした。。。m(_ _)m
なるほど、そうなりますとやはり、環太平洋で発見されてくる縄文土器の研究に期待するところでしょうか。
古代の伊豆文明が、縄文土器とともに、太平洋で栄えていたと言えるようになるといいのですが。

さて、この「枯野船」の話は、伊豆の話をもっと広げてくれるかもしれません。
松橋さんが、三島大社の事を調べて、大山積神が海の民の神だと教えてくれました。
古代の伊豆が海洋王国だった可能性が強くなった気がします。
さらに、関連するものをまた調べてみたくなりました。

>「カヌー」発祥の地になれば、それも伊豆市の目玉になります。

確かにそうですね!気の長い話だと思いますが、、、将来が楽しみです。

縄文の松橋さん、話が太平洋レベルまで大きくなってしまいましたが、
もし情報がありましたら、こちらの方も守備範囲に入れて頂くとウレシイです ヽ(^o^)丿

>古代船「枯野」復元ですが、1992年10月、中伊豆青年会議所創立10周年を記念して復元されました。
・・・・・
>現物は昭和の森会館に展示してあります。

そうだったのですか、さすが堀江さんです、情報がすぐに出て来るのですね~
これも、しっかり見させて頂きます (^。^)
沖縄海洋博(1975年)にミクロネシアからカヌーで航海して参加したマウ・ピアイルグさんの話をテレビで見たことがありました。
(http://www.minpaku.ac.jp/exhibitions/permanent/oceania.html ここのチェチェメニ号)
そこで、日本一の枯野船なら、十分資格があると思ってましたけど、
なんか、話が具体的になって来た様でウレシイです。


   ☆

さて、次の説は知りませんでした。

>他にもインダス文化を興したペリシテ族のカヌル族が狩野の語源ではないか
>とか、いろいろありました。

なるほど、狩野の語源も面白そうですね。
ペリシテは、いまのパレスチナですが、
近くで大航海交易をしていたファニキア人がいましたので、可能性があるかもしれないですね。

狩野が、単独の一族だと考えてみますと、加良怒(カラヌ)と言う発音もありましたら、
karun karan が語幹だと仮定して、色々考えてみたいです m(^-^)m

あれっ・・・今思い出しましたが、10年ほど前に「カラ族」の話を読んだことがありますが、
この「カラ族」の話は、今はなんと!超古代ムー文明にまで拡大しているようです。。。。。
ムー、むー、ムー (….…;) この話は、ちょっと、保留に・・・

それはさておき、「角川日本地名大辞典」も大変ありがたいです。

>伊豆国から貢納したという枯野船の船材は狩野山から切り出して
>おり、それが現在の軽野神社の辺りだとされている。天城山は古く狩野山
>と呼んでいた。

これで、「軽野」を根拠に話を進められます!

   枯野(からの) ←→ 軽野(かるの) → 狩野(かるの→かの)


しかしながら、皆さんにこんなに真面目に取り上げて頂いたことは初めてです!
そのうえ、しっかり調べて頂いて感激です。
色々どうもありがとうございます~ (^◇^)ノ

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  かれちち - 2003/10/15(Wed) 23:17 No.33
私はパソコンも歴史も素人ですが・・・。どちらも”まったく”面白いですね! 「角川日本地名大辞典」に記載されていた
応神天皇を 今日ネットで調べてみました。
歴代天皇 初 代 神武天皇 紀元前660年~前585年 弥生時代始 
      15代応神天皇 紀元 270年~310年  弥生時代終
      16代仁徳天皇    313年~399年  古墳時代

・・というわけで「軽野船」ができたのは、275年弥生時代・・・か? な~。

ちなみに(現天皇は 125代 今上天皇 1989年~ )
応神天皇の子 仁徳天皇の歌
 高き屋にのぼりてみれば煙立つ 民のかまどもにぎはひにけり

カヌーから大部外れちゃってすみません。    

     

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  堀江 - 2003/10/16(Thu) 22:32 No.36  HOME
 かれちちさん、やまもとさん、情報をたくさんいただきありがとうございました。
 知識の乏しい私にとって何よりの励みになりました。これからもいろいろな情報をお寄せくださるよう
お願いいたします。
 かれの→かの→カヌーについての説は、賛否両論あることは以前に書きましたが、改めて書き込みますので、
しばらくお待ちください。

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  かれちち - 2003/10/17(Fri) 09:09 No.37
10月17日の静岡新聞に

「登呂遺跡から琴出土 弥生後期、ほぼ完全形」  の記事がありました。

弥生時代 枯野船で 琴を作った話も本当なんですね! 

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  堀江 - 2003/10/17(Fri) 13:12 No.38  HOME
 静岡新聞を確認しました。「登呂遺跡から琴出土」は、枯野船の燃え残りの固い芯から琴を作った証でしょうね。
 材質は、クスノキなのでしょうか。伊豆各地のクスノキがある土地に「枯野」「加納」など「かの」を連想す
る地名が多いのも、琴発見に関連していると興味深いのですが。

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  やまもと(古代ファン) - 2003/10/19(Sun) 21:43 No.42  HOME
かれちちさん、堀江さんありがとうございます

>応神天皇を 今日ネットで調べてみました。
>歴代天皇 初 代 神武天皇 紀元前660年~前585年 弥生時代始 
>      15代応神天皇 紀元 270年~310年  弥生時代終
>      16代仁徳天皇    313年~399年  古墳時代

これはまたまたありがとうございます。
応神天皇の年代で、リアリティーが出てきますね!
実は、神功皇后と竹之内宿禰が伊豆に攻めてきて、修善寺で戦った話を昔よんだ事があるのですが、
どうも正史ではなかったようで、まだ見つかりません。後日調べてみます。

ただ、応神天皇の母親の、神功皇后が伊豆に関係した話をやっと一つみつけました。
   http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi16.htm
ここに『応神の母にあたる神功皇后が伊豆に国造を置いて支配権をのばし、・・・』とありますした。
(ここでも、やはり大洋航海が可能な「かるの船」の話がでてました)

かるの→かの→カヌーについての説は、まだまだ見当つかないですね。
調べているうちになにか手がかりが出て来たらウレシイのですが。
それと、加茂族などとの関わりも見えてきませんので、
まだまだ結論は遠いいかもしれません・・・

>材質は、クスノキなのでしょうか。伊豆各地のクスノキがある土地に「枯野」「加納」など「かの」を連想す
>る地名が多いのも、琴発見に関連していると興味深いのですが。

む~ これは凄い着眼ですね~
クスノキですか! ともかく昭和の森会館に見に行かなければ p(゜v゜)q

   ☆☆☆

他のスレッドにも、貴重な話をしていただいてます!
なにぶん、時間に追われて、バタバタしてまして (….…;)
遅れてますが、またレスいたします、もうすこし待っててください m(_ _)m

Re: 「枯野」船が「カヌー」の語源?  堀江 - 2003/10/21(Tue) 16:30 No.44  HOME
 いろいろ考えて見ますと、私が一番ばたばたしているかもしれません。
今日も、沼津がありましたし、明日も一日修善寺です。
 昨日のシンポジウムの記録をまとめていて、体がもう一つほしいぐらいです。
 大変に遅くなってはいますが、お約束の返信は必ずします。
 ところで今、船の模型を探しています。
「い」の字石  投稿者:堀江 投稿日:2003/10/10(Fri) 11:04 No.20  HOME
 先日の「い」の字石につきましては、宝蔵院の本堂の前の庭にあります。一段上がったところにありますので、
 宝蔵院さえ、見つかればすぐにわかります。場所は地図のとおりで、ドライブイン船原帝(旧甚五郎)の前です。
 なお、宝蔵院に問い合わせたところ、石については、HP紹介と若干違う見方をしています。
 弘法大師には違いありませんが、寺の言い伝えは、弘法大師が自らの指で法力をもって石に魂を込めて掘り込んだということです。
 その昔大きな石が往来の邪魔になり、近所の人たちが大きすぎて困っていたそうです。そこを通りかかった
弘法大師が、路傍の石に命を吹き込み、軽くして本堂の前に据えたという伝説でしょうが、詳細はさだかでありません。
20_1.gif

Re: 「い」の字石  やまもと(古代ファン) - 2003/10/14(Tue) 18:07 No.31  HOME
これは、大変ありがとうございます。
ドライブイン船原帝を探して行けばいいのですね、大変分かりやすくて助かります。

それにしても面白いお話だと思います。
弘法大師ゆかりの石とは、なんとも意味ありげで、ついつい空想が広がってしまいます。
堀江さんが「史話・民話」の「伝説の石」で
   >弘法大師が天城地方を訪れた際に宝蔵院門前で発見され、自ら命名されたと言われています。
と言われてますが、とても賛成です。
弘法大師は、この石になにかを感じ取って、大切にしたと考えていいと思います。
やはり、この石は『ただものでは無い』と考えていいのでしょう。
「い」の字の意味がわからないとしましても、
これはなんとしても見なければー p(゜v゜)q

それから、記事No.25「神代文字かもしれませ~ん!」でも書きましたが、
「軽野神社」から発見された木片を、この宝蔵院の住職(故人)が解読した話もすごいです。
それにしましても、、、古代の香りが漂ってきました (^m^)

本当にありがたい情報を、ありがとうございました <(_ _)>

まったく個人的な感想なので恐縮ですけど、
天城が古代の伊豆文明の中心だったかもしれないと思っているのですが、
今度の伊豆市誕生は、その範囲からしても、古代の天城勢力の復活のような気がしてなりません。
堀江さんも、ますますご活躍くださーい (^◇^)ノ

Re: 「い」の字石  堀江 - 2003/10/16(Thu) 22:22 No.35  HOME
 宝蔵院の先代住職は、私が役場へ入ったのが昭和45年で、教育委員会に配属となりましたが、実はその前任の
社会教育主事として、文化財保護などに活躍されていました。
 そこへ、馬の骨が後任として就職したわけですから、天城湯ケ島の社会教育の進展に水をさす結果となった事と
いまさらながら反省しております。
 せめてもの罪滅ぼしが、このホームページであり、必死で方言や地名・苗字などを調査して、公開しました。
 宝蔵院には、左甚五郎の「ぼたん」の彫刻もありますし、旧暦の8月26日には、いわゆる「26夜さん」と
いって、山門から逆三日月が3つに見えたり、帆掛け舟に見える時もあるようです。
 古くには、山門に地域の人が集合して、手料理を持ち合い、月見を楽しんだとされています。
 いの字石や古代文字の話題からずれてすみませんでした。
わかふじ  投稿者:かれちち 投稿日:2003/10/10(Fri) 22:08 No.22
第58回国民体育大会(NEW!!わかふじ国体)の「バレーボール競技

成年女子9人制」が天城湯ヶ島町青羽根の総合体育館(天城ドーム)で

平成15年10月26日~29日に開催されます。
22_1.jpg

Re: わかふじ  かれちち - 2003/10/10(Fri) 22:14 No.23
まだ植栽中ですが、会場前の花壇で 大会マスコットの「ふじっぴー」が

全国の選手の皆さんや、応援の皆さまをお待ちしています。
23_1.jpg

Re: わかふじ  管理人 - 2003/10/11(Sat) 07:07 No.24  HOME
 かれちちさん。ニューわかふじ国体のPRありがとうございます。
 花壇の位置が、会場の近くにありながら気がつきにくく、車では通り過ぎてしまう人も多いようです。
 でも、マスコットの「ふじっぴい」をかたちどった花壇ですので、歩いて天城ドームにおいでになる皆様の安らぎになればと思っています。
 今、地元は国体一色です。そこに、衆議院の公示が重なって、とほほですが、、、
「天城の響き」  投稿者:堀江 投稿日:2003/10/10(Fri) 11:09 No.21  HOME
 天城連峰太鼓と和楽器の競演である、「天城の響き」が9月28日に行われました。
 ニュースとしては、少々遅くなりましたが、画像をアップします。
21_1.jpg
矢熊橋の変遷  投稿者:堀江 投稿日:2003/09/30(Tue) 15:30 No.15  HOME
 狩野川上流の矢熊橋、明治以前は丸太橋で、大雨の都度流されていたようです。現在は近代的な橋が平成11年に完成しています。
 それ以前の橋の歴史をご紹介します。左側からの番号です。
 (紹介する写真が小さくてすみません。)
 写真①大正中期。この橋は完成直後に流失したそうです。
 写真②大正11年完成。美しい形で親しまれた吊り橋でした。
 写真③昭和24年完成。木の橋はこれが最後です。①から③は、山から木を切り出し、大きな借金を背負って当時の人たちが作った芸術品です。
 写真④昭和33年完成。狩野川台風の直前に完成しました。位置が高いこともあり、かろうじて難を免れ、東西の往来に大変な役割を果たしました。
 写真⑤平成11年完成。現在の橋です。
採火式・炬火リレー  投稿者:堀江 投稿日:2003/09/29(Mon) 13:10 No.10  HOME
 9月27日、午前10時から天城温泉会館で「ニューわかふじ国体」に向けての採火式と炬(きょ)火リレーが行われました。
 この炬火は「天城路・文学の火」と名付けられ、県内市町村を回り、開会式の会場である袋井市のエコパ・スタジアムに灯されます。

 採火式・炬火リレーのページ http://www.izuamagi.com/etc/saika.htm
 夏季大会・ビーチバレー(郷野君出場=全国5位)のページ http://www.izuamagi.com/etc/beach.htm

  写真1(左)
 しろばんばの登場人物に扮した町民が火を起こします。その火から立岩町長が採火しました。
  写真2(右)
 リレー隊によって町内第2区間を運ばれる炬火。この後土肥町へ。

Re: 採火式・炬火リレー  かれちち - 2003/09/29(Mon) 22:45
天城湯ヶ島町で採火された炬火は、土肥町を経て修善寺町にリレーされました。

Re: 採火式・炬火リレー  かれちち - 2003/09/29(Mon) 22:52
大会旗です。 まごまごしていたら炬火は通り過ぎてしまいました。(泣)

Re: 採火式・炬火リレー  かれちち - 2003/09/29(Mon) 22:56
修善寺中学校にて歓迎式が行なわれた後、中伊豆町にしっかり引き継ぎました。

Re: 採火式・炬火リレー  管理人 - 2003/09/29(Mon) 23:00  HOME
 かれちちさん、修善寺駅前・そのほかの写真をありがとうございます。この日は中伊豆が最終コースでしたが、一人で二箇所で炬火をカメラに収めるのは、本当に至難の業ですね。
 炬火は、すごい煙とともにあっという間に通り過ぎましたという話を聞きます。かく言う私も、炬火隊の直後を車で走行した関係で、ほとんど煙しか追えませんでした。
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